徳田は当初小妻村の延長として小妻村や近隣諸村の人たちによって開発されたため、小妻新町と呼ばれた後に新町村として独立した。
開発の年代は定かでないが、寛水12年(1635)の史料に荒町(新町)村との記載があるので近世の初頭に開かれたものと思われる。
開発当初は、里川の東側の低地に宿並みを形成していた。しかし、度重なる洪水により、上と下にかかる橋が流され、人々は悩まされた。こうしたことから新町はいつしか荒町と呼ばれるようになった。そこで水害に悩まされた村民は宿並みを現在地の里川西側に移すことを藩に願い出て許され、寛文四年(1664)に移った。
しかしその後、たびたび火災が発生したことから貞享四年(1689)村民が一体となって村名の変更を願い出て、新町村を徳田村に改めたといわれている。 徳田の語源について、郷土史研究家の瀬谷房之助氏は、『里美地名の旅』の中で地名は吉、利、友などの好字や福、富、得(徳)などの縁起を願ったものが多く用いられ、徳田の場合、土地の開墾が終わり多くの作物が得(徳)られるとの思いから名付けられたようだと述べている。
常陸太田の地名話31
川松 博
川松 博
<参考文献>
「新編常陸国誌」「茨城県地名大辞典」「里美村史」「里美の歴史散歩」「広報さとみ 128号・157号」